2017年11月10日
武田勝頼「景徳院」

武田信玄公の菩提寺である≪恵林寺≫に行ったからには、
寄らなければならない武田勝頼公の菩提寺である≪景徳院≫。
味わいのある総門の階段をしばらく上って行きます。

創建当時からの見事な山門が見えて来ます。春には桜が綺麗だそうです。

織田信長の死後、甲斐を手に入れた徳川家康は、
武田勝頼を弔うために田野寺(現景徳院)を建立しました。
「景徳院」とは勝頼の戒名です。
恵林寺の賑わいとは反して、誰一人いないひっそりした境内。

真っ直ぐ進んで行くと本堂。その裏手には真っ赤に燃える紅葉がありました。


本堂前の立派な松の木は、武田家累代の重宝旗を根元に立て、
世子信勝に楯無鎧を着用させ擐甲の礼を行ったとされる「旗竪松」です。

オレンジ色の紅葉の中、裏から回って鐘楼を眺めました。

こちらは甲将殿。武田主従の位牌などが納められているそうです。

甲将殿から少し下りたところに武田勝頼らの墓がありました。

『没頭地蔵尊』。勝頼親子と妻の遺骸が埋葬され地蔵が安置されています。

総門前の川辺には勝頼の首を洗ったという「首洗い池」がありました。

信玄の死後、
跡を継いだ勝頼は織田・徳川との『長篠の合戦』で大敗。
新府城を築き再挙を図るものの味方が寝返りはじめ、
武田の重鎮である穴山信君までもが見限ってしまいました。
そのため、勝頼は未完成の新府城を放火し、家臣である小山田信茂の
居城である岩殿城に逃げ込もうとします。しかし、ここでも離反にあって、
岩殿城への入城を拒否されてしまったのです。
新府城には、火を放ってしまったので戻ることもできず、
仕方なく日川をさかのぼって田野の地を仮の陣所としましたが、
結局、織田軍に包囲された武田勝頼はこの地で自害してしました。
この『天目山の戦い』によって、
甲斐武田氏嫡流は滅亡し、勝頼親子の首は京都で梟首にされました。
その後に徳川家康の命によって、菩提寺としての景徳院が建てられて、
勝頼は信勝、北条夫人とともに菩提が祀られています。
これら一連の合戦のことを甲州征伐、または武田征伐といい
武田氏一族は攻め滅ぼされて滅亡してしまったのです。

真っ直ぐ進んで行くと本堂。その裏手には真っ赤に燃える紅葉がありました。


本堂前の立派な松の木は、武田家累代の重宝旗を根元に立て、
世子信勝に楯無鎧を着用させ擐甲の礼を行ったとされる「旗竪松」です。

オレンジ色の紅葉の中、裏から回って鐘楼を眺めました。

こちらは甲将殿。武田主従の位牌などが納められているそうです。

甲将殿から少し下りたところに武田勝頼らの墓がありました。

『没頭地蔵尊』。勝頼親子と妻の遺骸が埋葬され地蔵が安置されています。

総門前の川辺には勝頼の首を洗ったという「首洗い池」がありました。

信玄の死後、
跡を継いだ勝頼は織田・徳川との『長篠の合戦』で大敗。
新府城を築き再挙を図るものの味方が寝返りはじめ、
武田の重鎮である穴山信君までもが見限ってしまいました。
そのため、勝頼は未完成の新府城を放火し、家臣である小山田信茂の
居城である岩殿城に逃げ込もうとします。しかし、ここでも離反にあって、
岩殿城への入城を拒否されてしまったのです。
新府城には、火を放ってしまったので戻ることもできず、
仕方なく日川をさかのぼって田野の地を仮の陣所としましたが、
結局、織田軍に包囲された武田勝頼はこの地で自害してしました。
この『天目山の戦い』によって、
甲斐武田氏嫡流は滅亡し、勝頼親子の首は京都で梟首にされました。
その後に徳川家康の命によって、菩提寺としての景徳院が建てられて、
勝頼は信勝、北条夫人とともに菩提が祀られています。
これら一連の合戦のことを甲州征伐、または武田征伐といい
武田氏一族は攻め滅ぼされて滅亡してしまったのです。
Posted by カール at 20:00│Comments(0)
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