2022年02月14日
大乗院と松平家
松平家の歴史にも大きく関わる安祥城(安城城)。
初代城主の松平親忠から松平清康まで4代続いた後に廃城になりました。
松平家4代当主の松平親忠により開創された了雲院。
1792年にその了雲院が安祥城跡に移転して≪大乗寺≫となりました。
大乗寺は本丸跡に建ち、かっての安祥城を想起させる風景となっています。
「安城市歴史博物館」「安城市民ギャラリー」は城址に建てられました。
今では一帯が「安祥城跡公園」として安城市民に広く開放されています。
松平家発祥の地と言われる「安祥(安城)」の地。
1524年に7代目当主の松平清康が岡崎城を取得した後も
拠点こそ岡崎に移しましたが、安祥城はなおも引続き重要拠点でした。
1540年に尾張国古渡城主、織田信秀(信長の父)が、
安祥城を攻撃し落城させ、城代に庶嫡である織田信広(信長の兄)を配置。
1545年に8代目当主の松平広忠(家康の父)が、
安祥城の奪還を目指し出撃するが織田家に大敗を喫する。
以降、織田家の圧力に耐えられなくなった広忠は今川義元へ支援を要請。
しかし、その見返りに嫡男である竹千代(徳川家康)を人質に出すように
要求されやむなくこれに従うが、竹千代輸送中に戸田氏の裏切りにあい、
竹千代は織田家へと送り届けられて織田家の人質となった。
1549年に今川義元は、太原雪斎率いる2万の軍勢で安祥城を攻撃させ、
織田信広を捕えることに成功する。今川義元は信広と本来人質になる
はずだった竹千代との交換を持ちかけ竹千代を人質にとった。
そして今川家が岡崎、安祥城に城代をおいて松平家を支配下においた。
1560年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、
竹千代(松平元康)は今川家から独立し織田信長と同盟を結ぶ事となった。
この同盟により安祥城の前線での価値は薄れ1562年に廃城となった。
なお、徳川家康は松平宗家9代当主で、徳川氏初代である。
今回、「丈山苑」の日本庭園を見に安城市に行きました。
初めて出掛けた安城市が、家康につながる事を知って感動しました。
今年の正月に久能山東照宮に参拝してから、
自然と家康ゆかりの地に足が向いてしまうのも何かの縁でしょうか。
今では一帯が「安祥城跡公園」として安城市民に広く開放されています。
松平家発祥の地と言われる「安祥(安城)」の地。
1524年に7代目当主の松平清康が岡崎城を取得した後も
拠点こそ岡崎に移しましたが、安祥城はなおも引続き重要拠点でした。
1540年に尾張国古渡城主、織田信秀(信長の父)が、
安祥城を攻撃し落城させ、城代に庶嫡である織田信広(信長の兄)を配置。
1545年に8代目当主の松平広忠(家康の父)が、
安祥城の奪還を目指し出撃するが織田家に大敗を喫する。
以降、織田家の圧力に耐えられなくなった広忠は今川義元へ支援を要請。
しかし、その見返りに嫡男である竹千代(徳川家康)を人質に出すように
要求されやむなくこれに従うが、竹千代輸送中に戸田氏の裏切りにあい、
竹千代は織田家へと送り届けられて織田家の人質となった。
1549年に今川義元は、太原雪斎率いる2万の軍勢で安祥城を攻撃させ、
織田信広を捕えることに成功する。今川義元は信広と本来人質になる
はずだった竹千代との交換を持ちかけ竹千代を人質にとった。
そして今川家が岡崎、安祥城に城代をおいて松平家を支配下においた。
1560年に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、
竹千代(松平元康)は今川家から独立し織田信長と同盟を結ぶ事となった。
この同盟により安祥城の前線での価値は薄れ1562年に廃城となった。
なお、徳川家康は松平宗家9代当主で、徳川氏初代である。
今回、「丈山苑」の日本庭園を見に安城市に行きました。
初めて出掛けた安城市が、家康につながる事を知って感動しました。
今年の正月に久能山東照宮に参拝してから、
自然と家康ゆかりの地に足が向いてしまうのも何かの縁でしょうか。
Posted by カール at 20:00│Comments(0)
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