2022年02月16日
旧本多忠次邸
毎回、前を通るたびに気になる看板を目にしていました。
国道1号線へとつながる県道26号線沿いの≪旧本多忠次邸≫の看板。
少し寄ってみる事にしました。岡崎東公園内にあるお洒落な洋館でした。
洋室を中心に家具や調度品。ステンドガラスなど目を見張るものばかり。
サンサンと降り注ぐ洋室の日光室は、和室部屋から続いていました。
1階北側の一番奥には化粧室と浴室がありました。
浴槽タイルとステンドグラスが見どころの湯殿。
陶器製の羊の口から出た湯水が一度下の平らな部分で受けて段差で
滝のように流れて浴槽へ貯水する。そんな面白い仕組みとなってました。
モザイクタイルミュージアムを思い出しました。
国道1号線へとつながる県道26号線沿いの≪旧本多忠次邸≫の看板。
少し寄ってみる事にしました。岡崎東公園内にあるお洒落な洋館でした。
洋室を中心に家具や調度品。ステンドガラスなど目を見張るものばかり。
サンサンと降り注ぐ洋室の日光室は、和室部屋から続いていました。
1階北側の一番奥には化粧室と浴室がありました。
浴槽タイルとステンドグラスが見どころの湯殿。
陶器製の羊の口から出た湯水が一度下の平らな部分で受けて段差で
滝のように流れて浴槽へ貯水する。そんな面白い仕組みとなってました。
モザイクタイルミュージアムを思い出しました。
奥の化粧室・浴室付近には二階へと続く階段がありました。
2階にも化粧室と浴室がありました。こちらは琺瑯製のバスタブでした。
前面南向きの執務室は、自然光が入ってとっても気持ち良い洋室部屋。
執務室と隣り合わせた部屋は、椅子とテーブルの打ち合わせ部屋です。
その隣は畳が敷かれている和室の部屋です。和洋折衷の間取りです。
奥の階段とは違って入口近くの階段は、洋館をイメージする螺旋式でした。
結局丸々1時間。隅々まで見て回って、有意義な時間を過ごせました。
本多忠次は、徳川四天王の一人本多忠勝を始祖とする本多家十七代目
本多忠敬の次男として東京都本郷の旧岡崎藩邸に生まれました。
父の忠敬は宮内省式武官・貴族院議員を歴任し、岡崎では城址公園整備や
教育振興の貢献により岡崎市名誉市民となっている人物です。
本多忠次は、東京帝国大学に学び、36歳の時に敷地選定から建築設計を
地震で行ない、およそ一年間をかけて自邸を完成させたのは昭和7年でした。
世田谷野沢に広大な敷地を取得した忠次は、当時文化人の間でブームと
なっていた田園趣味の影響から、自邸の建築様式にスパニッシュ風を取り
入れました。内部は中央に廊下を通して、南側には応接間や居間・食堂を。
北側には台所や、便所、納戸、浴室などを配しています。
家族の団欒やプライバシーを重視する
現代住宅の先駆けともいえる住宅を完成させたのでした。
2階にも化粧室と浴室がありました。こちらは琺瑯製のバスタブでした。
前面南向きの執務室は、自然光が入ってとっても気持ち良い洋室部屋。
執務室と隣り合わせた部屋は、椅子とテーブルの打ち合わせ部屋です。
その隣は畳が敷かれている和室の部屋です。和洋折衷の間取りです。
奥の階段とは違って入口近くの階段は、洋館をイメージする螺旋式でした。
結局丸々1時間。隅々まで見て回って、有意義な時間を過ごせました。
本多忠次は、徳川四天王の一人本多忠勝を始祖とする本多家十七代目
本多忠敬の次男として東京都本郷の旧岡崎藩邸に生まれました。
父の忠敬は宮内省式武官・貴族院議員を歴任し、岡崎では城址公園整備や
教育振興の貢献により岡崎市名誉市民となっている人物です。
本多忠次は、東京帝国大学に学び、36歳の時に敷地選定から建築設計を
地震で行ない、およそ一年間をかけて自邸を完成させたのは昭和7年でした。
世田谷野沢に広大な敷地を取得した忠次は、当時文化人の間でブームと
なっていた田園趣味の影響から、自邸の建築様式にスパニッシュ風を取り
入れました。内部は中央に廊下を通して、南側には応接間や居間・食堂を。
北側には台所や、便所、納戸、浴室などを配しています。
家族の団欒やプライバシーを重視する
現代住宅の先駆けともいえる住宅を完成させたのでした。
Posted by カール at 20:00│Comments(0)
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