2020年11月12日
城跡公園『足助城』

今回初めて足助城まで足を延ばしました。
一の谷駐車場すぐそばの山道を登った場所にありました。
入口には管理室が整備されており、入城券300円を購入して入ります。

しばらく歩くと目の前に段々積みの山城足助城が見えて来ました。

山城へは草木をかき分けて道なき道を歩くのが常でしたが、
きちんと整備されており、「順路」の立て看板で迷う事はありません。
そしてまた、ところどころに「説明プレート」まで設置されていました。
このようなプレートが要所に14ケ所あり、とっても親切な山城です。

ところどころに立ち寄りながら30分程かけて、ようやく本丸に到着です。

階段を上って、本丸の二階からの景観です。足助の町が一望出来ました。

足助城は標高301mの真弓山山頂を本丸とした連郭式の山城です。
むかしは「真弓山城」や、「松山城」「足助松山城」とも呼ばれたそうです。
現在残された遺構は戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた
鈴木氏が15世紀以降に築城した跡と考えられます。
鈴木氏は忠親⇒重政⇒重直⇒信重⇒康重と5代続きました。
戦国時代には岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、
永禄7年(1564)以降は、高天神城の戦いなどで武勲をあげます。
そして、
天正18年(1590)康重の時に徳川家康の関東入国に従って、
足助城を去りますが間もなく家康から離れ、浪人したと伝えられます。

ところどころに立ち寄りながら30分程かけて、ようやく本丸に到着です。

階段を上って、本丸の二階からの景観です。足助の町が一望出来ました。

足助城は標高301mの真弓山山頂を本丸とした連郭式の山城です。
むかしは「真弓山城」や、「松山城」「足助松山城」とも呼ばれたそうです。
現在残された遺構は戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた
鈴木氏が15世紀以降に築城した跡と考えられます。
鈴木氏は忠親⇒重政⇒重直⇒信重⇒康重と5代続きました。
戦国時代には岡崎の松平氏との間で従属離反を繰り返しますが、
永禄7年(1564)以降は、高天神城の戦いなどで武勲をあげます。
そして、
天正18年(1590)康重の時に徳川家康の関東入国に従って、
足助城を去りますが間もなく家康から離れ、浪人したと伝えられます。
Posted by カール at 20:00│Comments(0)
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