2017年09月10日
比叡山延暦寺「東塔」

初めて出掛けた比叡山延暦寺。
いつものように事前調べも何もないまま、ぶっつけ本番。
だから、どこに何があるのか。どの位の広さがあるのか不明なまま。
とにかく迷いながらも何とか比叡山延暦寺の入口へ到着!!

巡拝料700円を払って「延暦寺三塔巡拝マップ」を頂いて散策開始です。

入口からしばらく歩くと一隅会館前の広場に出ました。

頼りになるのは「延暦寺三塔巡拝マップ」と境内内の看板類のみ。

この地が「東塔地区」と言われ、比叡山全体が一大聖地だという事です。

まずは、比叡山全体の本堂である「根本中堂」へ。

61年ぶりという「根本中堂」の大改修作業が始まっていました。
総事業費は驚きの約50億円。完成予定は2025年度だと言う事です。
境内にはたくさんの施設がありました。各施設の紹介です。
大黒堂(日本の大黒天信仰の発祥の地と言われています)。

事務所と「世界宗教者 平和の祈り記念碑」

文殊楼(中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建されたものです)。

文殊楼の隣にあった鐘楼。「国連平和の鐘」と言われるそうです。

大講堂(1964年に山麓坂本の讃仏堂を移築したもので国要です)。

大講堂の隣にあった鐘楼(開運の鐘。世界平和の鐘)。

戒壇院(僧侶が大乗戒を受ける比叡山中で最も重要なお堂です)。

この階段の上に阿弥陀堂と法華総持院東塔があります。

阿弥陀堂(1937年に建立された、檀信徒の先祖回向の道場です)。

法華総持院東塔(日本全国の宝塔の中心的役割をするのがこの東塔)。


比叡山延暦寺は平安時代に最澄が開いた天台宗の本山寺院です。
京都府と滋賀県にまたがる世界遺産で、この巨大な山全体が寺域です。
比叡山延暦寺は、いくつもの谷や尾根を活かしてつくられた
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区からなります。
1571年(元亀2年)には織田信長によって
焼き討ちをされて、延暦寺の建物の多くが消失してしまいます。
豊臣秀吉により、1573~1592年(天正年間)に再建されました。
その後、「根本中堂」は1631年(寛永8年)の台風で倒壊しましたが、
1642年(寛永19年)徳川家光により再建がはじまり現代へ続きます。
ブログも明日は「西塔(さいとう)地域」へ続きます(笑)。

事務所と「世界宗教者 平和の祈り記念碑」

文殊楼(中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建されたものです)。

文殊楼の隣にあった鐘楼。「国連平和の鐘」と言われるそうです。

大講堂(1964年に山麓坂本の讃仏堂を移築したもので国要です)。

大講堂の隣にあった鐘楼(開運の鐘。世界平和の鐘)。

戒壇院(僧侶が大乗戒を受ける比叡山中で最も重要なお堂です)。

この階段の上に阿弥陀堂と法華総持院東塔があります。

阿弥陀堂(1937年に建立された、檀信徒の先祖回向の道場です)。

法華総持院東塔(日本全国の宝塔の中心的役割をするのがこの東塔)。


比叡山延暦寺は平安時代に最澄が開いた天台宗の本山寺院です。
京都府と滋賀県にまたがる世界遺産で、この巨大な山全体が寺域です。
比叡山延暦寺は、いくつもの谷や尾根を活かしてつくられた
東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3地区からなります。
1571年(元亀2年)には織田信長によって
焼き討ちをされて、延暦寺の建物の多くが消失してしまいます。
豊臣秀吉により、1573~1592年(天正年間)に再建されました。
その後、「根本中堂」は1631年(寛永8年)の台風で倒壊しましたが、
1642年(寛永19年)徳川家光により再建がはじまり現代へ続きます。
ブログも明日は「西塔(さいとう)地域」へ続きます(笑)。
Posted by カール at 20:00│Comments(0)
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