武田信玄公の菩提寺である
≪恵林寺≫に行ったからには、
寄らなければならない武田勝頼公の菩提寺である≪景徳院≫。
味わいのある総門の階段をしばらく上って行きます。
創建当時からの見事な山門が見えて来ます。春には桜が綺麗だそうです。
織田信長の死後、甲斐を手に入れた徳川家康は、
武田勝頼を弔うために田野寺(現景徳院)を建立しました。
「景徳院」とは勝頼の戒名です。
恵林寺の賑わいとは反して、誰一人いないひっそりした境内。
真っ直ぐ進んで行くと本堂。その裏手には真っ赤に燃える紅葉がありました。
本堂前の立派な松の木は、武田家累代の重宝旗を根元に立て、
世子信勝に楯無鎧を着用させ擐甲の礼を行ったとされる「旗竪松」です。
オレンジ色の紅葉の中、裏から回って鐘楼を眺めました。
こちらは甲将殿。武田主従の位牌などが納められているそうです。
甲将殿から少し下りたところに武田勝頼らの墓がありました。
『没頭地蔵尊』。勝頼親子と妻の遺骸が埋葬され地蔵が安置されています。
総門前の川辺には勝頼の首を洗ったという「首洗い池」がありました。
信玄の死後、
跡を継いだ勝頼は織田・徳川との『長篠の合戦』で大敗。
新府城を築き再挙を図るものの味方が寝返りはじめ、
武田の重鎮である穴山信君までもが見限ってしまいました。
そのため、勝頼は未完成の新府城を放火し、家臣である小山田信茂の
居城である岩殿城に逃げ込もうとします。しかし、ここでも離反にあって、
岩殿城への入城を拒否されてしまったのです。
新府城には、火を放ってしまったので戻ることもできず、
仕方なく日川をさかのぼって田野の地を仮の陣所としましたが、
結局、織田軍に包囲された武田勝頼はこの地で自害してしました。
この『天目山の戦い』によって、
甲斐武田氏嫡流は滅亡し、勝頼親子の首は京都で梟首にされました。
その後に徳川家康の命によって、菩提寺としての景徳院が建てられて、
勝頼は信勝、北条夫人とともに菩提が祀られています。
これら一連の合戦のことを甲州征伐、または武田征伐といい
武田氏一族は攻め滅ぼされて滅亡してしまったのです。