介抱も虚しく49歳の若さで・・。
短い人生でした。これも運命というならば、むごい事をするものです。
正月明けの1月11日早朝4時に浜松医療センターに救急搬送。
それから253日目の今月20日(日)14時20分。帰らぬ人となりました。
男三人兄弟の末っ子として生まれた実弟。
彼とは5歳離れていたので、
小さい時にはいつも、パンパンゴ(みそっかす的な意味)的な存在でした。
高校まで野球をやって厳しく鍛えられて社会に出ましたが、
若い頃、人生につまずき人に言えない苦労をして豊田市で日勤夜勤を繰り
返す期間工を送っていた辛酸な時代・・・。そんな事実を母親から聞いて、
出掛けて行って、その日のうちに寮を引き払い、無理やり連れて来ました。
私の勤務する会社の代表に頼みこんでアルバイトとして浜松での第一歩を
進み始めた20年前。当時は住む家もなく、県営住宅に住んでいた我が家
に居候として住み始め、生まれて間も無い次女をあやしたりしてました。
浜松で第二の人生を歩み始めてからは、馬車馬のように働きました。
会社の役員にまで登りつめ、代表から厚い信頼を得るまでとなりました。
恒例のグループ全社員が集まる新春祝賀会で会って話をしたのが、彼と
交わした最後の会話です。『もっと会社を良くしたい』と熱く語っていました。
救急で運び込まれてからは、インフルエンザ脳症の影響で身体も動かず、
声も発せず意識不明状態となりましたが、搬送された初日の夕方、私が
病院を去る時、『頑張れ。負けるな』と励ました際、朦朧とした意識の中で、
涙ながらに「ごめんね。ごめんね・・・」と言葉にならない声で繰り返す様が、
今でも強烈に脳裏に焼き付いています。
志し半ばで、何の整理も出来ないまま、突然この世を去っていくことが、
どんなに悔しかった事だろう。どんなに無念だった事だろう。
彼の嘆きが聴こえて来そうです。親よりも先に逝ってしまう辛さ・・・。
昨日、葬儀と火葬を済ませて、
骨の1本1本を大切に骨壼に収めて改めて実感しました。
これで、『サヨナラ』なんだと・・。
三年前の父親との別れの時とは、また違った感情がありました。
「向こうで親父と仲良く酒でも酌み交わしてくれ」。
合掌。